昭和四十八年 六月二十八日 朝の御理解
x御理解第七十八節
 「神の気感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら、家柄人筋となって、これが神の気感にかのうたのじゃ。神の気感にかなわぬと、身代もあり、力もあるが、まめにない。まめで賢うても、身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう、神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」


 「神の大恩を知らぬから互い違いになる」と。「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けるぞ」と教えてあります。
 神様のおかげをおかげと分からしてもらう。これはおかげである、これはおかげではないと思うたり、または神様のおかげなどということは全然信じないという人はいくらもある。
 信心をしておっても、これはおかげ、これはおかげではない、自分の都合の良いことはおかげ、自分の都合悪いことはおかげでないというようなものでなくて、神のおかげを知ればということは、神愛を知るとか、悟ることだと思う。
 神のおかげを知るということは、一切が神愛だと、ここに初めて神のおかげが分かった。そこから自ずと神様の御恩徳というものは分かる。御恩徳に対し、奉っての神恩報謝の生活が出来る。その神恩報謝の生活が出来るから、子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るのです。
 神恩報謝とはどういうことかというと、神の大恩を知って、その大恩に報い奉ろうとする生活であります。神恩報謝の生活というものはね、神様のおかげを知り、大恩が分かり、その大恩に応え奉ろうとする一途なもの、そういう心が、これはもうなる程一年勝り代勝りのおかげを受けられるはずです。子孫も続くはずです。
 私は昨夜、遅う出て参り、御祈念をさして頂きよりましたら、私はどんな場合であっても、拍手して神前に向うたが最後、これはあの、起きる時休む時に、机の上に手をついて御祈念をする時でも、これはもう、金光様と言う時には必ず「五つの願い」というものは、もう必ずすることにしている。私はこの「五つの願い」がせねばおられん、という心が生まれた時が、私は神恩報謝の心、神のおかげが分かり、神の大恩が分かった人達であると思うのですね。皆さんそう思われんですか。
 もうそのことは絶えず祈り、思い続けなければおられないことです、五つの願いというのは。あれが身勝手とか、自分のことであったらですね、そんなに願えるものでもないし、もうこれは「五つの願い」が、今申しますように、しら真剣に願え、いつでも願わなければおられないという人は、神のおかげが分かり、神の大恩が分かった人です。
 昨夜はどうした、そうした「五つの願い」をさして頂きよりましたら、涙がこぼれて涙がこぼれてしようがなかった。繰り返し繰り返しのお願いをしておると、もう止めどもない涙がこぼれる。
あの「五つの願い」をさせて頂いておったらね、神様が、神様がまあ言うならば、歓喜の涙をこぼしてなさるとですよ。神様のお心であり、神様の願いである。その神様のお心が分かり、神様の願いを私どもの願いとして、願っておるからです。
 体の丈夫を願えと仰るから、体の丈夫を願う。いかにもこれは自分のことの為にこれは願うのじゃないのです。体の丈夫のおかげを頂いて、それこそ一年でも長生きのおかげを頂いて、一年長生きをすれば、一年神様の御用が出来る。そうでしょう。
 家族が勢を揃えて信心させてもらい、そのことの祈りを、家族を挙げてさしてもらう。どうぞ家族の不和なきことが元ぞと仰せられるこの元をです、とても頂かしてもらわなきゃ、一つの神様のお喜び頂けるようなことを、例えて言うならば、一年に一度の謝恩祭なら謝恩祭を仕えさせてもらう。
 それが、家族が勢を揃えてなかったら、もうほんなご付、神様事ばかり一生懸命してからと、一人思うたら、もうそれで言うなら崩れる。どうしても家庭に不和のなきが元と言われることは、信心一つにつながっておるということなんです。
 私が言うように、それこそ限りなく美しゅうならせて頂こうという、もうせめてもの謝恩祭の一つ出来るようになったということは、どうでしょうか。神のおかげを知り、神の大恩が分かってきたから、それに対して応え奉る、年に一回の印を表わすのでしょうが。
 それにどうでしょう、沢山のお供えが集まった。さあ明日はお礼参拝の時に、この一切を神様に奉ってお礼申させて頂こうという時に、家内が、「その酒一本ぐらい家にもろうとったっちゃ良かろうもん」 「その缶詰は家にもろうときなさい」「これは家の息子にやろう、これは家の娘にやろう」そして神様にはちょこっとばかり持ってくる。そういう汚いことでは宅祭する値打ちはないです。
 けれども、さあ家族の中に、勢が揃うとらんと、それを自分の物のように思うのです。また、家族の中に信心が揃うておらんとです、そげん何も彼にも持って行かんでもと、一人でも言う者がおったら、そういうことになるのです。
 私はこれだけは思うですね。限りなく美しゅうならせて頂こうという稽古を謝恩祭…。だからみんな謝恩祭の一つも出来るごとならにゃいけんです。神のおかげを知り、神の大恩が分かってきたらです、それに応え奉る印をね宅祭というものは表わすものだと思うです。
 そこで合楽の方達の場合には、それが出来ておることが有難いです。ですから、家族が勢を揃えておかねば、家庭に不和があってはそれが出来んのです。このところの信心をすきっとさせて頂いて、もう本当に美しゅうならせて頂くことが、神恩報謝の心を、このよううにして不浄のないものとして捧げることが、こんなに有難いことだということが分かるということが、神の大恩を分かるから、どうかしなければおられんようになって来なければいけんのです。
 神のおかげを知らんからと仰るが、神のおかげを知っとるようであって知っとらんところに、そういう不浄不純なものが生まれてくる。そこを分からせて下さろうとする働きが、必ずだから始まるです。
 どうぞ家族の者が勢を揃えて信心さしてもらい、不和のなきが元である、一切が円満な在り方にならせて頂かなければ、いや心が合うということ、一家中が、本当に神様がお喜び下さる御用が出来るために、家族が勢を揃えた信心をせねばならんということになります。
 もう本当に家族が仲良い、それは確かに仲良いことは良い。だから円満に円満にという、だがその円満にというのもです、そうした神様のお喜び頂けるような御用にお使い回しを頂かせてもらう時に、不純不浄のものがかかってはならないから、家族が心を一つに表わせる。
 だから普通で言う、家庭が円満だというのは、その、意味が違う。
いわゆる、子孫繁盛家繁盛、神のおかげが分かり、神の大恩が分からせてもらうところから、子孫も…。
 ところが、今申しますように、私どもの場合は、どこに御粗末御無礼があるやら分からんところにです、大酒大食をして、体を言わば疎かにするようなことがあったり、または、家族の者が勢が揃わずに、私は有難い心で神様に向うとるけれども、家族の中に、どこに誰が、心に不浄な不純なものを感じたり、思うたりしとるか分からないところが、やはりお詫びをせねばおられません。
子孫繁盛家繁盛ということは、そのまま、信心の継承を意味するものです。どうぞこの有難い信心が、子にも孫にも、一年勝り代勝りにおかげを頂くためにと。どうでも信心の尊い受け渡しというものがされなければならない。
 私どもが日々、言うならば、朝から晩まで、言うなら一生懸命に働くとする。その働くということが、いよいよはたが楽になることの為に、仕事ということは、そのことに仕えるという精神、それが仕事である。それを以て一切に奉仕する、何に奉仕するか、神様に奉仕するというそういう精神が働くということになるのです。必ずはたが楽になるような働きになるのです。そのために願っておる、「真実の御用が出来ますように」 そして、そういうひっくるめた大きな信心が力ともならせてもらって、おかげで健康でもあります。家庭が円満でもあります。子供にも孫にも信心が続いて参ります。そこにゆとりが出来る、余裕が出来る。その余った力を以てです、言うなら、和賀心時代を創るというような運動の展開の為に奉仕する。神願成就の為に祈り、または奉仕をさせてもらう。
 そういう尊い内容を持っておるのが、「五つの願い」なのですから、どうぞこれを繰り返し御祈念度にこれを願う。せからしかちゅうことじゃないことが分かるでしょう。もう喰い下がるようにして、このことだけはどうでも頂かねばならんとして願うのですから、神様がそれこそ感涙を催しなさるはずです。
 私は昨夜、それをしみじみ感じた。成程「五つの願い」というものは、ただ私が健康になりたい、私が金持ちになりたい、ただ家庭が円満になりさえすれば良いというものではなかとじゃ。その奥の奥の方にです、それこそ神様の心を心としての願いでありますから、神様が感動してくださるはずです。有難涙がこぼるるはずです。
 皆さんどうでしょうか。最近「五つの願い」のことが、内容がそのように深うなれば深うなる程、この「五つの願い」だけは願わねばおられないのです。その願わずにはおられない心が、神様の心と交流する、神様の心と一つになる。
 昨日、秋永先生ところの妹さんに当たられます。小夜子さんという大変熱心な信心をしておりましたが、病気で亡くなった。丁度二十年になりますので、二十年の式年祭に当たります。ここでありました。もう私はこんなさわやかな霊祭は初めて仕えました。
 さわやか、皆兄弟達が、みんな夫婦揃って、真心一杯とかそんなものじゃなくて、何とはなしにね、神様を信じ、御霊様を信じておる者が。当然させてもらわねばおられんというように、そんな切羽詰まったものではないけれども、もう当然のこととしてしておるという、実に、あの御霊様を偲ぶといったものじゃなくて、ただ何事も真心になれるということが、淡々として出来ておるという感じのお祭りでしたね。
だから、生前の御霊様のことを偲んで、ほんにあれが好きじゃったけん、あれがあげなことしよった。あれがげなこと言いよったといったような涙のこぼれるようなものじゃなくて、いわゆる神様を信ずるからこそ、御霊様の働きを信ずるからこそ、もう当然のこととして、あの御法事なんかというものはもう、みんな、沢山のお金を掛けてするけれども、もうそれこそ何か大事ばってんせじゃこてというた風な、世間の手前があるとか、親戚の手前があるけんといったようなものが感じられますよね。
 私はお祭済ませて聞いて頂いたんですけど、昨日私新聞を読ませてもらいよったら、四国のある先生が、あのお道の新聞に、「忘れえぬ思い出」という題で、いつも誰かが書いておられる面があります。そこに高橋正雄先生がおいでの頃、日田の堀尾先生がおられる頃、お二人が講師で、四国に青年教師会におみえになった。片一方は教学派、片一方は御神徳派といった感じの先生ですから、事毎に話が離反した。反対になって行った。とうとう最後には堀尾先生がそれこそ席を蹴って、顔色変えて立たれた。「もうこういうような御用は御免蒙る」と。高橋先生をにらみつけて立ち上がられた時に、高橋先生が立ち上がってある堀尾先生をにらみ上げて、「ここで御用が出来ないものが、何で日田に帰って御用が出来るか。神様のお使い回しを頂かなければ、神様に使うて頂かなければならない。御用が出来ない私達じゃないか」と仰ったそうです。
 自分が御用に気とると思うとるか、神様のお引き回しを頂かなければ御用一つ出来ない私達じゃないか。ここで御用が出来ないものが、何で日田に帰って御用が出来るか。しばらくはこうやってにらんでおられたけれども、しばらくしたところが、そろえこそニヤッと笑うてから、「ああ仕方がない」と言ってお座りになったという話が出ておる。
 その時に話の内容は覚えていないけれども、この場面をそれこそ、心と心とが通い合うておる、信心ということで、肝胆相照らす仲である。ただ信心の行き方が違うということで衝突しとるだけである。
しかも両先生とも、神様のおかげを頂かなければ立ち行くことではないことを、もう百も承知の先生方ばかりである。
 私もそこんにきを読ませて頂いて感動した。さすがとこう思うた。
神様のおかげを知り神様の大恩が分からなければ、そういうことは出来ません。神様のおかげが分かり、御霊様の、例えば私の方の泰子の先日一年の式年祭を仕えました時に、z「帰去来」ということを頂いた。ここら辺ではいどらの葉という、かめの葉とも言う、饅頭を包む葉、いかいかに赤い実がなって、それに丸い葉がこう出来る。あれは帰去来と言う。学名を帰去来と言う。帰る、去る、来るとあります。
 御霊様がいわゆるお国替えをされるということは、故郷に帰られるようなものである。あの世にも一辺誕生されるのも同じ。だから、また、里歩きに言ったり来たり出来るという程しの霊ということなんです。
 そういう、例えば信心を段々に分からせて頂いて、思いを込めてのお祭が出来る、奉仕が出来るところからです、御霊様とこの世に残っておる者の合作。いわゆるかめの葉を、こうやって二枚合わせてお饅頭を包むでしょう。饅頭ということはおかげを頂かにゃならんでしょう。万の寿と字で書いたら分かるでしょう。それを包む。
 おかげを受ける受け物がです、神を信じ、御霊の心を分からせてもろうて、奉仕をするところから段々御霊様も力を受け、徳を受けておかげを頂かれるようになるというのである。そういうことをです、それはもう絶対とはいかんにしても、秋永先生達、大橋、それから文男先生、嘉朗さん三夫婦、例えば、その三夫婦の者が例えばそのことを分かり、信じての霊祭ですから、いつにさわやかなこと、もうこうやって一生懸命思いを込めて、お供え一つでもさせて頂いとることが、一つも無駄になりよらんのだという言わば信心、確信を以てのお祭が奉仕されておる。
 だからもう実にさわやかなお祭、だから私はまた、こってりとまでは行かなかったよと私が申しました。もっともっと限りがないのです。引っ掛かりがない、実にさわやか、そういうお祭が昨日仕えられた。
 そこの中に私が神様のおかげを頂かなければ、私どもも御霊様も立ち行かんのだということを、信じておるということは、神様のおかげが分かり、または神の大恩が分かるから、それが出来それが言えれる。高橋先生と堀尾先生の場合も同じこと。
 そこからです、「無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来る」だから、神の気感に適うた氏子というのはです、今一番最後のところだけ今日は聞いて頂いたんですけれども、そういういわゆる神の大恩が分かり、大恩に報い奉るところの神恩報謝の心というものがいよいよ募る生活をさして頂く者の上には、確かに家柄人筋が変わってくると思う。家の中に汚いものがなくなってくる。そういう意味においてです、「五つの願い」というものは、そういう内容が分からなければ、「五つの願い」というものはもう、言うならば下策になるわけです。
 そういう内容が分からんで、ただ健康を下さい。どうぞ財のおかげを下さい。どうぞとまるで欲張ったおかげになってくる、内容が分からないと。その内容が分かれば分かる程、「五つの願い」はしなければおられんのであり、その内容が分かってくれば来る程、その「五つの願い」が本気でなされて、それが実を結んで、それによって御用が出来るという信心になることを、子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられるということがです、言うなら、「五つの願い」が本当に出来れるようにならなければならんということになります。そういう願いが出来てくる時にです、確かに家柄人筋も変わってくるでしょう。
 先日、北野の関さんところの謝恩祭でした。御神前に額があげてある。私が色紙に詩を書いて上げていた。それをきれいに額にして上げてありました。[徳積みて 栄える家や 菊の花]という句がありました。
 徳を積んで行くということは、どういうことか。なぜそれが栄えるのか。今日私は三十日の大祓式のこと。それから、七月一日から始められる、全教一斉に夏の修行が、向こう一ヵ月間、例年の通りございます。そのことを神様にお願いさせて頂きよりましたらね、zレモンを二つにぷつっと切って下さるところを頂いた。
 そして、一つの方をこうやって見せて下さる。レモンの切り口が丁度菊の花のような、いわゆる心を切って、心を割って、菊の花を出して、大祓には臨まなければならない。また一年中の例えば交通安全のことも、病気をしないことも、そういう気持ちでなからなければならない。そして七月一日からの修行のことをお願いさせてもらいよったら、片一方のレモンをこうやってしぼるところを頂いた。とにかく修行というものは、そういう菊の花のような心を、それこそ汗を絞ってと言うでしょう。もうそれこそ絞るような修行が出来なければならんぞというお知らせであったとこう思います。
 そういう、例えばお祭も、または修行もです、言うならば、この「五つの願い」の内容というものを、いよいよ分からせて頂くことの為に、またそれを言うならば、子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けさせて頂くために、そういう信心がなされなければならないということも言えるわけですね。どうぞ。